”どうして私ばっかり”
こう感じることってあったり
しません?
僕はかつてありました><
なんか自分ばっかり与えて
ばっかりだよな~、
返ってきてないよな~
とかね。
で、これに関して今日は深掘りを
していきたいと思ってるのですが、
まず、
”どうして私ばっかり”
というのは分離の言葉
ということです。
同じ意識、共通認識、共通言語、
など、
”同じ”
ということに対して人間は
安心感を覚えるものです。
そこに対して、
”どうして私ばっかり”
と言ってるということは、
相手と自分に差を作ってる状態。
かつての僕は、
一人で荒野の中で
わざわざ誰も見つけてくれない
ようなところで穴を掘って、
どうして俺ばっかり!
って悲劇のヒーローを演じながら、
「王様の耳はロバの耳」
的に、穴に向かって、
というより穴に入って、
さらに穴の底に向かって、
叫んでる状態でした(苦笑)
その穴から出れば、明るい世界があり、
自分が許し、緩められれば、
与えられる世界が既にそこにあるのに
その声を無視して、耳を塞ぎ、
目はひたすら穴の奥の方ばかり見つめ、
この世は暗闇ばかりだと信じて
いました。
人は、「どうして自分ばっかり」
と言ってる状態は、
視野狭窄に陥り、周りは敵だらけ、
孤独感、隔たり感、誰も理解してくれない
という防御膜をはり、
理解してくれなくて結構です!と
強がってみる中で、
でもあえて一人の部屋に閉じ籠り、
うずくまって泣いている
という状態なんだと思っています。
どうでしょう、
そうやって閉じこもっている
人が、菩薩のような人が現れるのを
待つというような手段をとるのが
果たして得策でしょうか?
確かにそういうことは起こり得ます、
誰かが助けてくれる、
今までの信念を丸ごとひっくり返して
くれるような人が現れる、
でも何年、何十年待っても実現するとも
限らない、
だとすれば、
僕は、
自分自身から変わる
という方が早い、と思います。
つまり、うずくまってる状態から立ち上がり、
穴を埋め、二度とその穴には潜れないようにし、
緩めて信頼して、地面に寝転がってみる。
「全てお任せします」
という言霊と共に、この世界を
信頼し直してみる。
そうすると、
今まで見ようとしてこなかった、
あるいは、
見てたんだけど見てなかったものが
見えてくる。
まずは当たり前のように
支えられている、
自分の命は多くの支えによって
できている。
親との関係がどうであろうと
産んでくださったこと、
生きてこられたこと、
自分の臓器、
お金を出せば当たり前のように
ご飯が食べられる幸せ、
思い返せば、たくさんたくさん、
やってもらったこと
与えてもらったこと、
が見つかると思います。
そこに目を向け出した瞬間、
「ああ、見ようとしてこなかった
だけなんだ」
ということに気づき出す。
失ったもの、失うかもしれないこと、
今の悲惨な状況より、
今与えてもらってるもの、
これまで与えてもらってきたもの、
に目を向け出す。
そして与える時には、
見返りを求めない。
恩は送るもの。
返してもらうと、エネルギーの
逆流が生じます。
誰かに奢ったら、その誰かが
別の誰かに奢ればいい。
逆にいうと、見返りを求めてる時は
与えなくてもいいぐらい。
返ってこなくてもいいや的な
与え方が一番エネルギー的には
スッキリします。
上記のような考え方で過ごしていれば、
気づけば、後ろ側から、
いろんな方面から与えられていて、
気づけば、どうして自分ばっかり
という感覚が消えている。
そういう流れかな~と思います。
ぜひ上記のようなことを意識して、
豊かさをたくさん受け取って
くださいね^^