実行

あげあげ

「僕らは自分も他人も下げてる
暇はない、関わる人、そして自分自身を
いつも上げ続けろ」

 

わかっちゃいる、
わかっちゃいるけど難しい、

と言いたい自分がいる。

 

自己肯定感を上げることは、
馬鹿で、傲慢で、謙虚さが欠けて、
KYで、上から目線で、

っていう感じが、

僕の感覚だと、
まだまだ世の中的にも
あった感じでしたけど、

ここ最近特にその傾向が
終わってきたと感じています。
(僕の周りだけかもしれませんが)

 

自己肯定感を上げることは、
むしろ

賢くて、謙虚で、空気が読めて、
フラットな人付き合いが
できると感じてるんです^^

 

こんな僕が一緒にいてごめんなさい

から

この素敵な僕が一緒にいるあなた
素晴らしい

って思ったっていい。

 

こんな素敵な人と一緒にいるなんて
帰りたい

から

こんな素敵な人と一緒にいるなんて
自分すごい!

って思ったっていい。

 

他人を見下すこと、
差として見捨てること、
違うを間違いとすること、

これは僕自身、いまだによく
やってしまいがちです。

 

その度に自分の器の小ささを
思い知る。

 

傷つくことを恐れて
傷ついたことを見ないふりして、

人を見下し、差を作り、

とやるのは簡単なこと。

 

そこに自分の論理と正当性を
主張しようとしたって、

どうしようもなく、
惨めと感じている自分がいる。

 

本当は誰からも愛されて
認められて敵を作りたくない
のに、

浄化して自分が自分になれば
なるほど、

自分以外が削られていって、
自分に嘘がますますつけなくなる。

 

その時は、

差を悪だとしていた自分、
差を見下しに使っていた自分、
差の中に和を見出せなかった残念な自分

これが自分の中にいることを
発見し、

どんな人の中にも和を見出し、

一緒にいられなかったとしても、

呪いとしての怨念を向けるのではなく、
祝いとしての愛を向ける。

 

難しい、と言いたくなるけど、
やり切る。

 

奥に愛を見出せ、
どんな人にでも惚れろ!

つまらない人間だと扱うな!
つまらない人間と一緒にいる
つまらない人間だと自分を扱うな!

 

言葉遊びで、無理やり解釈を
捻じ曲げようとしたって
うまくいかない。

 

無理やり解釈を捻じ曲げようと
してる残念な自分を発見し、

その裏にどれだけ傷ついたのか
そしてその奥にどれだけの
愛があったのか、掬い上げる。

 

傷つくのはその奥底にある
愛に、その根底にある愛を
掬い上げるため。

 

他人をあげられなくても
自分をあげられなくても
たまには蔑んだって
見下したって、
卑屈になったっていい。

 

だけどそんな自分じゃカッコ悪い、
いやだ、もうあきあきだ!

 

中途半端に上げたり下げたり
するぐらいなら

あげきれ、自分のことも
他人のことも。

 

器を広げ切る覚悟を。

 

どんな人、どんな状況にも
愛を見出そうとする姿勢になる
覚悟を。

 

もし自分がそうできたとして、
その輪が少しでも広がることが
できたとして、

そしたらきっと、

差が和になる。

差を差別ではなく、
敬意として扱えるようになる。

 

自分が差にサレンダーし、
そして自分にも他人にも敬意を
表した時、

最大限の人間の力が発揮
でききる世界が現れる。

 

差を尊び、喜び合える世界、
誰一人として下げ合うことなく
あげ合うしかない世界。

 

これを作っていけたら、と
感じています。

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