”人を見下してしまう”
僕にはかつてこんな癖が
ありました。
いや今もまだあるとは
感じています。
初対面の人と会うと、
自分よりすごいか
すごくないか。
どんな経験をしてきたのか
年収はどれぐらいなのか
今何をしている人なのか
どんな人脈がある人なのか
そんなことで、自分より上か
下か、というのを
ジャッジしがち。
そんなことで人間の価値は
決まらない、
そもそもそんなことを
比較すること自体どうなの?
とか思うのですが、
ついやってしまう。。。
それってなんなのかなあ
なぜなのかなあ
って考えてみたんですよね。
で、行き着いた答えは、
怖かった。
怖かったんだなって。
どんな人だかわからないから
マウンティングしたがる。
あるいは、
本当は自分なんてって
思ってる部分があるからこそ、
空っぽな自分と認めたくなくて、
マウンティングしたがる。
自分の判断基準で、人に対して
勝手に、
勝った感
負けた感
を見出し、
そしてそんな自分が大嫌いだった。
比較の世界で生きられないことは
恐怖だ。
比較することで、
価値を見出してきた自分も
比較することで、
否定してきた自分も
両方なくなってしまうから。
アイデンティティーが
崩れ落ちる。
負けることも勝つことも
楽だ。
全員にリスペクトを見出す
って難しい。
誰かをいいとか悪いとか
ジャッジするのもそう。
正しいも間違ってるも
なくなってしまうことだって
恐怖でしかない。
判断基準がないと、
今の自分の立ち位置を確認
できないし、
これからどこに向かって
行けばいいかわからなくなる
から。
誰かを何かを否定するのは
楽だ。
自分の正しさとここにいて
いいという許可を
下ろせるから。
人生経験を重ねるたびに、
敵と味方
(と扱ってる自分)
が増えていって、
融合ではなく、
敵と味方という
いずれにせよ分離を
選んでる自分に気づく。
昨日ね、
セッションを受けたんです。
大嫌いな人の大嫌いを
吐き出すワーク。
それをエクセルに書き出して
いただき、言われた一言。
「これは誰のことですか?」
と。
僕が嫌いな人は、
傲慢で
感謝がなくて
やってもらって当たり前で
偉そうで
被害者意識持ってて
甘えてるやつで
わがままなやつで、、、
「これは誰のことですか?」
・・・・・・
「俺じゃん・・・」
傲慢であることを
認めたくなくて、
傲慢にみられたくなくて、
謙虚な自分のふりをした。
感謝がない自分を
バレたくなくて、
ありがとう、を意識的に
言うようにした。
やってもらって当たり前って
思ってるってバレたくなくて、
何かをお返ししようと
必死になった。
偉そうに思われるのが
嫌で、腰を低くした。
被害者意識持ってるやつだと
思われたくなくて、
「全部自軸で捉えるんです!」
と豪語した。
甘えてるやつでと
思われたくなくて、
ストイックな自分を演じた。
わがままなやつとバレたく
なくて、
配慮っぽいことを繰り返した。
行動は気を付けてきた。
だけど、
傲慢で
感謝がなくて
やってもらって当たり前で
偉そうで
被害者意識持ってて
甘えてるやつで
わがままなやつで、、、
を悪いものとして扱い、
それから逃げるように
それを隠すために
それを避けるために
逆の行動をしても、
結局にげてること、
蓋していること
悪いものとして扱ってることには
変わりがない。
そっか、
俺は俺のことを、
傲慢で
感謝がなくて
やってもらって当たり前で
偉そうで
被害者意識持ってて
甘えてるやつで
わがままなやつで、、
と思ってきて、それを
悪いこととしてずっと
蓋してきたんだ。
って心底認めて受け入れた
瞬間、大嫌いな人が
愛おしくなった。
大嫌いな自分が愛おしく
なった。
ああ、悪くないな、
弱いところも愛おしいな、と。
人は鏡、
全ては愛。
大嫌いな相手は
大嫌いな自分。
だから大好きになれる。
分離してると感じる相手は
分離している自分。
だからどこまでも繋がれる。
どこまでいっても
自分が創り出してる
世界なんだな~って
体験できた昨日でした。
主語自分。
全ては自分が創り出している。
結局のところ、これを
体験していただき続け、
腑に落とし続けることを
講座で行っています。
そしてそれは卒業後も
続く。
他軸にして、敵を作っていた
世界は、真に自軸に捉え直した
時に、とってもとっても楽になり、
現実がリアルに動き出す。