覚悟

正義

”正しさは、人によって違う、
それを共有できないとき、敵をつくる”

 

そんなふうに最近思っています。

 

みんなそれぞれ、何を正しいとするかの
主張って違うと思うんです。

 

自分の夢は今世中に
全部叶えたほうがいい!

という正義と、

いや、来世でいいです、

みたいな正義はぶつかったり、

 

結婚したからには子供は
絶対産むべき!

という正義と

結婚したからといって
子供は産まない!

という正義はぶつかったり、

 

そして僕らは、

マジョリティに迎合しがちだ。

 

いわゆる、

「普通こうでしょ」

という世界観。

 

あるいは

ロジカル。

 

「普通に考えて」
「論理的に考えて」
「どう考えても」

 

という枕詞がつくだけで、

 

「あの人がおかしい」

 

というセリフが正当化される
ような感覚がある。

 

僕らは自分を守るために、

自分の正しさに賛同者を
つけたがる。

 

「普通に考えて、
あの人おかしいよねー?」

理解しようとしない

あるいは、

理解できない人として
相手を扱う

を日常にしがちだ。

 

僕らは自分の意見が通らない時
自分が理不尽に傷つけられた時

 

「人としてあり得ない」

 

というセリフで相手を
人間扱いしないことで、

自分を守ったりする。

 

多数決に迎合するのは楽だ。

多数決で、

世の言う

「理解されやすい正しさ」

を振りかざしておいた方が
楽だ。

 

「普通に考えておかしいよね」

で差を作り、
思考停止させたおく方が
楽だ。

 

最近あった出来事で、

僕自身も、本当にそうやって、

人と差を作り、
自分の正当性を主張して身を守り、

誰かを頭のおかしい奴にして、
誰かのせいにして
誰かをダメな奴扱いしている

そんな自分をまだまだ見つけている。

 

いかに穿ったものの見方を
しているか。

 

いかに自分の解釈だけで生きてるか。

 

そんなことに辟易とする
毎日だ。

 

普通に生きていくだけなら、
それでいいかもしれない。

 

どこまで受け入れようとしても、
器を広げようとしても、

「この人だけは無理!」
「意味が分からん!」

はどれだけ綺麗事を言っても、

発生するものだと
感じるから。
(僕もいまだにしょっちゅう
あります)

 

それを、

どんな発言にも態度にも
ごもっともを与え、

背景に想いを馳せ、

全ての人をリスペクトする

ということがどれだけ難しいことか。

 

反応ではなく、感応で生きたいのに、
反応ではなく、選択で生きたいのに

 

無意識に、差を悪とし、
身を守る、を選んでしまってる
自分を見続けている。

 

苦しい、困難、だけれども、

だけど、

普通の道じゃないかもしれないけど、

プロとして
アドバイザリーとして
大義をなすものとして、

甘えとして差を作り自分を守る

ではなく、

どんな人にもどんな選択にも
ごもっともを
八方よしを

見出し続ける

 

毎回できてない自分にぶち当たる
けど、

やり続けていくことを
僕は決めている。

 

人間は本来、

相手と繋がりたい

という欲求を持っていて、

なぜならそれは、

へその緒

というつながりを一度持ち、
そして、

切り離されるという痛みを
持っているから。

 

スピでは根源は一つ、
ワンネスなんて言ったりするけど、

もしも最初は一つだとしたら、、、

僕らの悲しみは全て、

自分の価値観、正義感を
共有できないと感じてしまったがゆえに

ではないだろうか。

 

「あの人ってないよね!」

 

という怒りの奥には、

ただ単純に、

私の正義

あなたの正義

が共有できなかった寂しさがあるだけ、

ではないだろうか。

 

どちらかが正しい、
という世界は楽だ。

 

だけどもし、

どちらも正しいとしたら

あるいは

どちらも間違ってるとしたら。。。

 

その前提がある上で
目の前の相手に接し、

理解できない人などいないという
前提で、

人と接し続けたとしたら、

世界はもっと優しくなるだろうか。。。

 

上記は僕が最近感じている
ことをつらつらと
書き連ねています。

 

もし、同意してくれるなら、
この道を一緒に歩んでくれる
というのなら、

 

敵を味方に
呪いを祝いに

誰のせいにもしない世界を
一緒に作っていきませんか?

 

このブログが誰かの何かの
気づきのきっかけになれば
嬉しいです^^

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